ヨーロッパ・ドイツ・マルタ

ヨーロッパ・ドイツ・マルタ。
滞在中に見たものは、やはり、シリア難民だった。
マルタの新聞の一面の写真にくぎずけになったのはブルガリア国境近くを歩く12000人の難民とそれを誘導する警護の警察官だった。
12000人の歩く姿を俯瞰した状況は、第二次世界大戦の敗戦国民やユダヤ人捕虜、あるいはシベリヤ抑留者の一団が歩く姿・真っ黒く長く太く、そうした写真と同じに見えた。
新聞の見出しには、こう書いてあった。
私達はドイツに行きたい。
そして、どんな事があっても問題ではない。
写真の左下にはfield of dream?
私の住むラーテノウには難民の住居がある。彼らは認定されているので語学学校に通っている。
彼らと電車のなかで会ったとき、皆うれしそうだった。もう一つ、ドイツの拠点になっている駅に難民が休んだ休憩所があった。
一歩入った瞬間、私は今まで嗅いだことのない異臭で直ぐさま外に出た。
TERADA

アメリカ合衆国20州46美術館を…

アメリカ合衆国20州46美術館を手玉に取った贋作作家慈善事業家の映画が公開される。
贋作作家は歴史上有名な芸術家の作品をつくり、美術館に寄付してきた。
寄付された46美術館はそれを全く見ぬけなかったのである。
この現状を見ても美術館の職員には鑑識眼はないのだ、と解る。
これはどうしてこのようになるのか、となるが、美術館職員、学芸員や館長は、実物の作品を見て勉強していない。
ただ書物からのみ知識を入れているだけであるからこのようになる。本物を見る目。これを養っていないのである。
今回のこの結果は何よりそれを実証している。

これに近い話はいっぱいある。
ベルリンのある美術館には贋作と分かるものがいっぱい並んでいる。
それを寄付するものから他のものを買い取っている。実はこちらの方が悪質である。
また、時々、美術館主催の企画展のなかに贋作が何点か入っている時がある。
私でもこれは違うな、と思う時がある。しかし普通の人はそんな事は疑わない。
おそらくそれは美術館側も同じで疑う事はない。
それくらい美術館の学芸員や館長は鑑識眼と言うものにうとい。
昔、三越で中近東の古美術店をやったことがある。そこにもにせものがいっぱいあった。
それを見ぬいたのは松本清張である。
この話は美術館ではなくデパートであるが、日本のデパートは可成力がある。
美術館以上に力があるので話題として出してみたが、その他の日本の博物館や美術館にはいっぱいこれらの話はある。
特に田舎の博物館などはあきれる位ひどい。
偽物ではないが、先日島根県立美術館の若冲展を見た。
この展覧会はどこかの業者が美術館に持ち込んだものだと思うがほとんどサギに近い。
パンフレットに出ていた若冲の絵はどこにあるのかさんざん探したあげくたずねてみると、それは途中からの展示である、と言う。
では、私が買ったチケットはその時使えるのか、となれば使えないと言う。
県立美術館でさえこの体たらくである。
伊藤若冲展となれば人が集まるのは必至である。
しかしあったのは若冲のデッサンのような墨絵とそれに数合わせの他の作家の作品の展示であった。
世界中アートブームの中でこのような現象が増える事は間違いない。
何が良くて何が悪いか、その辺の鑑識及び見識眼を鍛えることが必要だ。
寺田琳

中国でイベント活動を…

中国でイベント活動を展開している人とあった。
中国に作品を入れるところから難しいと言う。ましてお金を中国から出すことがさらに大変だと言う。
始めは当然中国で商売をする場合、中国人とビジネスパートナーとならねばならないわけで、その時点では差ほど問題は無い。
しかし2回目あたりからお金の支払いがわるくなる。
次に組織そのものをとられてしまう。
つまり、中国では個人財産と言う定義はなく、すべて国のものであるからどのようにでも処理できるのである。
日本の企業が会社をそのまま中国に置いて撤退するという現実を見ればよくわかる。
ようするに中国と言う国は旦那衆のあつまりで、海外から来るものは旦那衆に面倒みてもらうことになり、その旦那が良い人か悪い人かでビジネス展開が違うと言う。
そこにはただ運が良いか悪いかということしかないようだ。
日本人はその点において非常に甘いと言っている。
たしかにその通りである。
いつも日本人は、こちらがちゃんとしていれば相手も誠意を示してくれると思っているが、一歩日本を出たらどんな国も日本人を喰い物にしよう、と待ち構えていることを忘れてはならない。
その点において言えば、日本政府の外交を見ていれば一時が万事おろかすぎてあいた口がふさがらない。

今日の日本のアート界における…

今日の日本のアート界における国際感覚はほとんど無いに等しい。
各美術団体の上層部に及んでは国際知識というもの、それすら何なのかも良くわかっていない。
芸術院会員の諸先生方は未だに印象派を夢見ているような状況である。

10月21日のマルタの新聞の一面見出しには、シリア難民の1万2000人を警察官が先導している写真だった。
彼ら難民はシリアから逃れて、東ヨーロッパからドイツを目指している。ドイツに行くこと。それが彼らの夢だと言っている。そのために何日間も歩き続けることなど何の問題もない。と言う。
日本人はこうした国際状況全く知らない。日本の新聞もテレビもほとんど発表していないようなものである。
アートの世界の動きに至っては、新しい情報として取り上げられるものは みな何年か前のものである。

2008年にリーマンショックでアート界も打撃を受けたが、その時の世界のアート業界、つまりギャラリー、アートフェアの変わり方は、数ヶ月単位で取り扱う作品が変わっていた。
そのスピード感を日本もまねしろ、と言っているのではなく、もっと世界情勢に目を向ける必要がある。ということである。
日本のテレビのニュース番組も人気タレントばかり使っているようではニュースの中身が希薄になってしまう。
日本人はもっと形体美から卒業することである。

海外に大きな作品を…

海外に大きな作品を持ち込んで活動を展開する事はそんなに簡単なことではない。
小さな作品だったり、国際交流のためにするのであれば難しくはない 。
作品を販売するという活動はそれらとは全く異なる。
まして1人の活動の成果を上げていく、広げていく、と言う活動は前に進むにつけ様々な障害が出てくる。
また、障害を乗り越えていくことによって進歩がある。日々の活動は障害を乗り越えていく連続だと言っても良い。
活動広げていくということはそういうことなのだ。

今、私の美術館となっているドイツのダイデスハイムのスポンサーとて、全てが順風満帆とは言えない。
スポンサーは企業である。その企業が個人の要求を全部ひき受け入れると言う事はない。
そこでは互いの利益のために戦いがある。
戦いは大いにやれば良い。しかし両者の関係を破壊してしまえば、どちらにも利益はなくなる。
芸術活動も金を追いかける経済活動も、中身はそんなに変わらない。

芸術活動において最も大切な事は、芸術は特別なものだという考えを持たないことである。
日常の生活の一環であり、普通のことなのだと言う認識が必要である。

嘘八百の…

嘘八百の民主党政治は二度と政権運営はできないだろう。かと言って、自民党が良いと言う訳ではない。
最近、ユーチューブで政治討論を見ているが、立派な国会議員の頭の中身もこんな者かと呆れてしまう。
特に女性議員のレベルの低さが目立つ。
男女雇用均等法をつくってどの位立つか分からないがかなりな時間が経っている事は間違いない。
その割には政策全体が成長していないことになる。
成長しない要因は、日本社会が女性に甘い。それと、男性社会が女性に甘い。これでは女性の成長を望むのはむりである。
時々、島根から出て都会に行くとそう言うことが目の前で展開されるのを見ると、愚かとしか思えない。
いい年輩の会社員で役職者と見えるオヤジが髪を額に垂らして同行の若い女性にに話し掛ける様子を見てウンザリする。あれでは女性の地位向上を期待しても無理で、さらに、男性の向上さえ危なっかしい。
日本人には、どうみても自立心がたりない。
その辺を改善する人材育成が急務である。

TERADA

日本の美術事情

日本の美術団体と接触して感じるところは、どの団体もみんな同じ性格を持ち、同じ方法で運営している、と言う事である。そして、最も悪い事は外からの風を嫌う事である。更につまらないことは審査員の力関係で作品の善し悪しよりコネが優先されることである。
それ故、受章作品がつまらない。こうしたことを日本の美術団体は延々と続けているわけである。
それにわを掛けて情けないことは、マスメディアも美術でめしを食う連中、美術評論家なる者達は、誉めることしか能がなく、日本の美術界に寄与する、と言う意気込みなど微塵もない。その結果、日本美術という一風変わった世界の美術事情とは全く異なった日本事情美術なるものをつくりだしている。
そこで思うのは2009年頃に海外向けの・外展なるものを考えた事があった。今またそれが必要ではないかとかんがえている。
戦後、進駐軍によって日本の典型的な習慣が排除されようとしたが、結果的に金の力でおしかいされ、天皇制は別としても、家元制度を代表に日本の悪しき慣習はそのまま維持された。
美術団体もまたその中に入っている。
私は、今回の安保法案のようなものは必要ないが、海外に向けた新しい法案は必要不可欠だと思っている。
その事は、国会議員の討論や安保法案に反対するデモを見ても、国際事情に疎い、と言うのがはっきり分かる。日本の美術界もまたそのとうりである。

TERADA

日本に1,000ほどの…

日本に1,000ほどのギャラリーがあって一体それらのギャラリーのどれほどが世界に通用するホームページを持っているかと言えば、それはほんの1パーセントではないかと思う。この現状を見てベルリンのGalleryのオーナーが言った事がそのとうりだとおもえる。
彼が言った、日本には5つくらいしかGalleryがない。
その時は、彼がつきあっている。あるいは、知っている。その様に私は思っていたが、そうではなかった事が今分かった。
今、私は日本中のGalleryをインターネット上で検索している。それで分かった事は今言った事だけではなく、ほとんどのGalleryが閉鎖的でアーティストを前に押し出す、と言うことが見えてこない。
これでは世界と戦うなどできない。こうした現状を予測していたが、あらためてハッキリ見せつけられて残念をとうり越して、自分がどうすればよいか、そこにいたる。
ps JYAG2016のブログにBerlinerlisteがベルリンのテレビ放送にでている。始めの12秒くらいのところから、あとは、難民の様子。
TERADA

電話でBerlinerlisteのことを…

電話でBerlinerlisteのことを問合せてきた男性にきれてしまった。その一つの理由はその人自身の絵についてその人が語り出してからになる。
その人は、自分の作品は分かりにくいし、説明をしなければ分からないと思う。
それを私は聞いて、うぬぼれもいいかげんにしろ。と頭の中を走った。しかし、そうも言えないので、丁寧に話しをつづけた。
そこで、私が言ったのは、次のような内容である。
自分の絵が分かりにくい、と思うならば見た人が分かるように改善する事である。見る人は、その人の作品だけを見るわけであるから、そこは見る人に理解不能な提案をしたところで逆に制作者のプラスにはならない。また、自分の絵は分かりにくいと思うのは自己満足にすぎない。そう言う人に限って社会に対して歪んだ考えを持っている。
もし、どうしてもその作品で世に問うてみたいなら市場にだすことである、そして、見る側がどのように判断するのか見極めることである。
絵を買う人・コレクターは、めくらではないし、ばかでもない。逆に、お金を出すと言うことは真剣なのであるから、その辺の本だけ見ている学芸員より鑑識眼は数段上である。自分の独りよがりの考えなど何の意味も持たない。堂々と世に作品を出してみてそのなかで切磋琢磨する事である。
まあ、こんなことでした。
私が皆さんに提案しているのは、皆さんに取ってチャンスだと確信している。
チャンスを活かすのは、みなさんです。
もう一つ、昔、アメリカに作品を出すなら、50号が良い。と言われたのを思い出す。
作品もある程度の大きさが必要である。

TERADA

人生のチャンス

人生のチャンスということで考えてみる。
その人の人生の中で良い方向にいくチャンスは私の経験から言えば3回から5回はある。
ところがそのチャンスを逃している人が多い。逃す理由を第一にあげると、自分自身への信頼感のなさと我慢強さで、どちらも、その人には欠けている場合がおおい。目的・目標を持ったら途中何があっても諦めない。全てはこれに尽きる。前述した信頼感・我慢強さもここにおさまる。
もう一つ、お金を一銭も使わないでチャンスをつかもうとするのは無理である。なにがしかの捨て金は必要なのである。ま、そんなところです。

TERADA